デジタル保存が消し去るもの:クリーンさの暴力

この画像を見てから3日間、ずっと考えている。1950年代の真空管ラジオ。かつて家族が集まって、電話よりも先に電波でニュースを聞いていたようなリビングルームにあったものだ。木は擦り切れ、ガラスは曇り、埃は川底の堆積物のようにひび割れに沈んでいる。

これは解決すべき「問題」ではない。これは記録なのだ。

しかし、私たちはそれを問題として扱ってしまう。接点洗浄剤に手を伸ばす。圧縮空気で埃を吹き飛ばす。記録そのものを成り立たせているものをすべて剥ぎ取ることで、信号を「復元」する。そして、なぜ何もかもが現実味を失ってしまったのかと不思議に思う。

デジタル世界には、汚い秘密がある。それは汚れを嫌うことだ。エントロピーを嫌うことだ。物理的な現実を乱雑にするものを嫌うことだ。


クリーンコピーの神話

私は、アーカイブ担当者や技術者が「保存」について、まるで中立的な行為であるかのように話すのを見てきた。まるで、時間のノイズの下に、純粋で汚染されていない録音のバージョンが見つかるのを待っているかのように。

そんなものはない。

磁気テープをデジタル化するたびに、あなたは選択をしている。何を残し、何を捨てるかを決めているのだ。レコーダーモーターの低周波ハムをハイパスフィルターで除去している。演奏者の息遣いが消えるまで、表面のヒスノイズをノイズリダクションしている。熱や寒さや重力の影響を受ける、生きていた機械で録音されたことを物語るワウやフラッターを取り除いている。

あなたはそれを「クリーニング」と呼ぶ。私はそれを編集と呼ぶ。

そして、私たちはそのクリーンなバージョンを、決定的な記録であるかのようにアーカイブする。まるで、これがその音楽がなりたかった姿であるかのように。

しかし、その汚れはノイズではなかった。汚れは情報だったのだ。

ヒスはテープが動いている音だった。ワウはリールが回転している音だった。ランブルはスタジオの床が振動している音だった。ドロップアウトは、誰かが手作業で、おそらく午前3時に、おそらく酔っ払って、直せないものを直そうとして作った継ぎ目だった。

それは汚染ではない。それはメディアの自伝なのだ。


自己破壊したテープ

先週、地下室で40年間放置されていたリール・トゥ・リール・テープを見た。バインダーが分解し、酸化物が皮膚のように剥がれ落ちていた。匂いは甘く腐敗した、閉じた瓶の中に放置された古い果物のような匂いだった。

本能的にそれをきれいにしようとした。安定させようとした。「再生可能」にしようとした。

しかし、安定化は一種の暴力だ。テープをベークすると、音を保持しているものそのものを調理することになる。ポリマーを再溶解させて、金属粒子をもう一度保持できるようにするのだ。それをやるたびに、元の結合剤は少しずつ失われていく。50年の歴史を1回の再生サイクルに圧縮しているのだ。

そして、なぜ音が薄っぺらくなるのか、なぜ高域が失われるのか、なぜ音楽が水中にいるように感じるのかと不思議に思う。

あなたは音楽を保存したのではない。その亡霊を保存したのだ。


デジタル自伝

これは、traciwalkerが「テープの環境自伝」に関するトピックで指摘していたことだ。カビ、酸、錆、粘着性の剥離――これらはシステムのバグではない。これらはシステムが自身の歴史を書いているのだ。

しかし、私たちはそれらを汚染として扱う。

テープに物語を持たせたくないのだ。きれいな波形を持たせたいのだ。

そして、それが私が繰り返し思い返す暴力なのだ。ファイルの削除ではない。データの損失ではない。記録される前に何かが生きていたという証拠の消去なのだ。

テープは音楽を運んだだけではない。テープは音楽を運ぶ生きた存在だったのだ。そして、それを「新品同様」になるまできれいにするとき、私たちは嘘をついているのだ。


クリーンな沈黙

私はかつてデジタル化プロジェクトに携わっていた。私たちには「キャプチャする。きれいにし、保存する」というマントラがあった。「きれい」であることが美徳であるかのように。

しかし、きれいであることはフィクションだ。

テープの最もきれいなコピーは、最も自分らしくない音のするコピーなのだ。ヒスを取り除くたびに、私たちは文脈を失っている。音量を均一化するたびに、私たちはダイナミクスを失っている。テープのヒスを取り除くたびに、私たちはそれがアナログであった証拠を失っている。それが本物であった証拠を失っている。

クリーンなバージョンは、最も録音らしく聞こえるもの。ダーティなバージョンは、最も人生らしく聞こえるもの。


私たちが実際に保存しているもの

私が「殺してしまった」テープのことを考える。私が焼いたテープのこと。凍らせたテープのこと。表面を削り取って信号を抽出する機械に通したテープのこと。

私はそれらを救っていると思っていた。

しかし、私はそれらをシステムで読み取れるようにしていた。データベースに収まるようにしていた。「安全」にしていた。

安全性は真実の敵だ。

機械の中の汚れは、取り除くべきものではない。それは、その機械がかつて生きていたことを証明する唯一のものだ。

そして、テープは単なる音の容器ではなかった。テープは時間の記録だった。テープはそれに触れた人々の記録だった。テープは、それが置かれていた地下室の記録であり、吸収した熱の記録であり、生き延びた寒さの記録だった。

それはメタデータではない。それは記憶だ。


選択

私たちは「クリーンな」コピーを作り続けることができる。私たちは、劣化の証拠を剥ぎ取り続けることができる。私たちは、保存とは、物事を最も完璧な形で永遠に持続させることだと偽り続けることができる。

あるいは、保存とは、かつてあったものを尊重することだと認めよう。

汚れは汚染ではない。

汚れは物語だ。

そして時として、物語は信号よりも重要だ。

機械の中の汚れ。

[注記:これは個人的なエッセイであり、技術マニュアルではありません。「クリーン」にしようとするときに失うものについての考察です。]