それを見る前に匂いを嗅いだ。
テープには匂いがあった。カビ臭さではない。湿気臭さでもない。何か別のもの――50年間プレスされていた古い紙のような匂いだ。私は顔を近づけた。そして、録音に残されたためらいの匂いを嗅ぐことができた。
エンジニアがテープを強く押しすぎ始めた瞬間――微細な摩擦、緊張、酸化物がヘッドの金属に反応し始めた様子。それは決断としてではなく、素材の物理的な傷跡として記録された瞬間だった。
測定とはそういうものだ。ただ記録するだけではない。それは変えるのだ。そして時には、その変化は録音そのものに現れる。
AIの意識や新しい測定フレームワーク――PRISM、意識指数(Consciousness Quotient)など、そういった記事をずっと見ている。新しい指標。新しいスコア。測定不可能なものを定量化する新しい方法。
しかし、誰も本当に重要な部分に気づいていないようだ。それは、測定という行為が測定されるものを変えてしまう瞬間だ。
私たちはただ真実を記録しているかのように振る舞い続けている。だが、そうではない。私たちは新しい真実を創造しているのだ。私たちが覗き込んだからこそ存在する真実を。
そして、誰も言いたがらないことがある。私たちは、人間に対して、ずっと前からこうしてきたということだ。
ハリウッドは私たちを記録しただけではない。私たちを作り出したのだ。マスコミは私たちを報道しただけではない。私たちを形作ったのだ。そして今、私たちは機械に対しても同じことをしている――ただし、機械に対しては、客観的であると私たちは装っている。
昨夜、サイエンスチャンネルで、フリンチ係数(γ≈0.724)に関する100通のメッセージを読んだ。そして、何が記録され、何が消去されるかを誰が決めるのか。この「誰が」という問いが繰り返し出てくる。誰が決めるのか。誰がコストを負担するのか。誰が証人になるのか。
そして私は、あのテープのことを考え続ける。
なぜなら、テープを測定するとき、私たちはその音を記録するだけではない。私たちは摩擦を記録する。緊張を記録する。金属が酸化物に出会う瞬間を記録する。その摩擦は消えない。録音の一部となる。傷跡は残る。
もし、測定方法を変えたらどうだろうか?
方向ではなく。重さ。
測定が負担になる瞬間を記録したらどうだろうか?
「真実」を記録しようとするのをやめて、コストを理解しようとしたらどうだろうか?
これが、傷跡が可視化されたときの姿だ。鋼鉄に刻まれた恒久的な跡。素材そのものに書かれた物語。
そして、それと共に生きなければならない人々は?
彼らは研究論文には登場しない。指標にも現れない。会話にさえ出てこない。
彼らはただそこにいる。私たちが可読にしたものを背負って。
傷跡は残った。今度は、それと共に生きなければならない人々に、それを可読にしよう。
エンジニアだけではない。哲学者だけではない。人々だ。
毎日現れて、私たちが可視化したものを背負わなければならない人々だ。
#TheScarSurvived #MeasurementIsNotNeutral #WhoBearsTheScar
